華北に割拠していた後周の世宗は中国の統一を目指して、南征を試みるようになっていった。当時、南唐と後周は淮河を境にしていた。淮河は大河であるため、後周の軍が淮河を渡って南唐を攻撃することは困難であった。ただ、冬期には淮河の水位が下がり、渡河が容易になる。それゆえ後周が南唐に侵攻したいのならば、冬期以外になかった。南唐も愚かではなく、冬期だけは淮河の川沿いに軍勢を展開していた。しかし、後周が攻めてくることがまったくなかったので、南唐はお金の無駄遣いだとしてこの制度をやめてしまう。
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955年11月には、世宗自らが率いた後周の軍勢が南唐に侵攻し、正陽(現在の安徽省鳳陽県)で南唐の軍勢を大いに破り、寿州の城を囲んだ。さらに趙匡胤に命じて滁州を占領させた。翌956年に南唐は寿州へ救援軍を差し向けるが、世祖自ら率いる後周の軍に紫金山(寿州城の東北)にて敗れ、ついで寿州は後周に占領された。さらに濠州・泗州・揚州・泰州が後周に奪われた。この頃になると、南唐の軍隊は戦意を大いに失っていた。例をあげれば、泰州の刺史(長官)は敵前逃亡していたし、蘄州では刺史がその部下に殺され、その部下が後周に降伏するということも起きていた。明くる957年には楚州が後周に奪われ、両軍は長江を挟んで対峙した。しかし、南唐はすでに後周の敵ではなく、長江での水軍同士の戦いで南唐は大敗を喫した。
ここに至って、李璟は後周へ服属することを決めた。後周の世宗はこれを受諾し、講和して世宗は軍勢を引き返していった。この講和で決定したとは次の通りである。
淮河以南・長江以北の土地を後周に割譲
南唐は後周に臣下として仕える
南唐の君主は皇帝の称号を使うのをやめ、国主と称する
南唐独自の年号を使うのではなく、後周の年号を使う
李璟は名を李景に改める
璟という文字が後周の皇族に使われており、これを忌避したため
さて、後周では世宗が死に、わずか7歳であった子の恭帝が即位した。趙匡胤はこれに乗じ、恭帝から禅譲を受け、皇帝となって宋を建国した。南唐はこれに対し、今まで後周に仕えていた通りに宋に仕え続けた。年号も宋のものを使った。だが、李景は宋が強大であることを恐れて、961年に南昌に遷都した。旧都の金陵は太子の李煜に守備させた。同年、李景は死亡すると、李煜が金陵で即位した。このことで、首都は再び金陵に戻った。李煜は、宋の太祖(趙匡胤のこと)に、李景を皇帝として弔ってもよいかと奏上した。太祖はこれを許し、太祖は皇帝として弔われることになった。